1/02/2010
生き甲斐
甲斐。
かい。
是Milly很喜歡的日文之一。
本身來說甲斐是一個地方,位在山梨縣。
另外,也是一個姓氏。
而Milly喜歡這字眼的原因是連結出來的詞句~[生き甲斐],生存的意義或是生存的動力。
行動の結果として現れるしるし。努力した効果。「我慢した―があった」2 期待できるだけの値うち。
「生きている―がない」→がい
「生き甲斐」「働き甲斐」
「生き甲斐」~生きるに値するもの。生きていく張り合うや喜び。
在日本的Yahoo的知惠庫袋中,看見這樣的文字。
皆さんの「生き甲斐」って何ですか?
唐突な内容で済みません…。
最近、人間が「生きる」という事とはどういうことなのかをよく考えこんでしまいます。
ある人から見れば、「暇な人間の考える事だ。」と思われるかも知れません。それは自分でも理解しています。
ですが、敢えて質問させてください。
世の中の全ての老若男女、ありとあらゆる職業に従事されている方・境遇の方に質問です。
あなたは今、何を生き甲斐にして日々を生きておられるのですか?
精神的に未熟な私に、皆様の御意見をお聞かせ下さい。
よろしくお願い致します。
然後其中有一個很有意思的答案。
私の生き甲斐は、『人として成長すること』です。
人として成長するには、いろいろな人と出会い、自分の間違いを指摘して論じてくれる方を見つけなければなりません。
私は、社長でも守衛さんでも学者でもお隣のお爺ちゃん、お婆ちゃんでも、話をするときは、前もって
『きっとこの方は、私の大事なことを知っているはず。私が気がつかないことを教えてくれるはず』
そう前提に頭にいれて、お話しします。
ある本の中に、「皆は錯覚している。人はなぜ生きるのか?と考えるが、そうではない。人はいきていく。という現在進行形なのである」と唱えていました。
また、哲学者達は、「生きることについて、いろいろ述べていますが、」
御茶○水大学 ○○教授は、生きることの結論として、
『人は誰でも、自分がしたいと思うことをしているのではないでしょうか。』と述べています。
ある人が、私の生き甲斐は○○である。と言ったところで、「生き甲斐が分かりました。」と
同じ行動したのだとしても、実際のところ、その人自身の生き甲斐であって、自分の体験し得たことからの「真の生き甲斐」ではありません。
結論は、『あなたは、生き甲斐について、考えている最中の出来事であり、本当の生き甲斐とは、人生の経験から、自ら感じ取るものなのです』
但是~~~更喜歡的是這樣的說法。
「生き甲斐がはっきりしていれば、どんな辛いことがあっても悲しいことがあっても、気分を切り替えて素早く元気になれそうです。落ち込んだり、めげたりしないでしょう。文句や不平をいうこともなくなりそうです。
ですから、生き甲斐さえあればいいのですが、その肝心の生き甲斐がなかなか見つからなくて困っています」というのがあります。
そうですね。確かに、生き甲斐はなかなか見つかりませんね。
特に、自分を元気にしてくれるような素晴らしい生き甲斐はそう簡単には見つかりません。
元気にしてくれて、その上、お金が儲かって、認められて、尊敬されるようなそんな生き甲斐。あると素晴らしいと思いますが、簡単ではありませんね。
なかなか見つからないのですから、気分はさらに悪くなります。
それで何年もかけて、自分の生き甲斐を探すようになります。
何回も転職したり、場所を変えたり、あれをしてみたりこれをしてみたりしながら生き甲斐を探すようになります。
そのうち、幸せに生きる事より、生き甲斐を探すことが目的になってきます。
すると、生き甲斐も探していないうちに、安易なことで喜んだり楽しんだりしてはいけないのだと思ってきます。
私には崇高な生き甲斐があるはずだ。まだ、それを見つけてはいないけれど、きっと見つかる。そしてそれを見つけて達成するまでは、安っぽい幸福なんて求めてはいけない。くだらないことを面白がって笑ってはいけない。
なんて、だんだん深刻に思ってきます。
すると、「生き甲斐が見つかりません。どうやったら見つかるのですか。早く見つけないと、もう30にもなってしまいました。このままでは私の人生は失敗です。助けてください」なんて悲痛な叫びになったりします。
30でなくて、40かもしれません。50かもしれません。長くやればやるほど悲痛になってきます。
でも、本当にそうでしょうか。生き甲斐がなければ人生は失敗なのでしょうか?いったい誰がそれを決めたのでしょうか?
どうも変ですね。
まるで、自分のしっぽに噛みつこうとして、追いかければ追いかけるほど草臥れて、落ち込んでいるようなものです。つまらない目標に人生を振りまわされているようなものです。どこが変なのでしょう。いつから変になったのでしょう。
例えば、画家になるという目標を立てるのは、具体的ですね。
具体的ですから、努力することも決まっています。賞を採りたければ、出品し応募します。入賞する、落選するははっきりしています。
つまり、色々具体的ですから、成功すればハッピーですが、もし、才能がないと分かれば、はっきり落胆しなければならなくなります。だから、シビアーです。甘くはありません。危険です。勇気が要ります。
でも、生き甲斐を探すというスタンスなら、大丈夫です。失敗しても、これは私の生き甲斐ではなかった。私の生き甲斐はもっと別にあるはずだ。と落胆しなくてすみます。そして、また、生き甲斐と思えるものをトライしてみます。心の底では、上手く行かなければそれは生き甲斐でない、だから安心だというう気持ちがあります。
この気持ちがありますから、少し辛いことになったり、少し努力が必要だったりすると、すぐに諦めてしまいます。これは私の生き甲斐ではないと。
どんなことでも、辛いこともありますし、苦しい時期もあります。認められないこともあります。でも、それを越えて努力なり継続なりができないと、実は、何もものにはならないのです。が、生き甲斐探しをしている人はそれがなかなかそれができません。だからどうするか?
そこで、「だから、嘘でない本物の生き甲斐」を探すべきなのです」という方向に向かってはいけません。それはいままで何年もそうやってきたことです。
それを止めましょう。
つまり、「生き甲斐はもう要らない」という方向に向かってみましょう。
「じゃあ、今まで探してきたことが水の泡ではないか。そんなもったいないことはできない」って反論されそうですね。でも、「生き甲斐」オタクから脱出するには「生き甲斐」は無用の長物だと「捨てる」しかないのです。
捨てると楽に生きられます。捨てると毎日がハッピーになります。
捨てるともう生き甲斐が見つからないと悲痛な叫びをあげなくてすみます。
捨てると分かりますが、捨ててもつまらない人間になるわけではありません。
生き甲斐探しをやめても自分は自分です。
捨てると分かりますが、捨てても昨日も今日もあまり変わりません。ただ、なんとなく感じていたプレッシャーがなくなるだけです。開放感があるだけです。生活自体が抜本的に変わるわけではありません。
昨日と同じです。同じ満員電車に乗っていつもの会社に行っていつもの仕事をするだけです。ただ、違いは、「これではいけない。なんとかしなければいけない」という強迫観念がなくなっただけです。
「だったら、人生がつまらないまま固定してしまいせんか」
と心配になるかもしれません。真面目な人ほどそう思います。
ですが、生き甲斐を探すことを目的としていても、そうでなくても、毎日の生活はおなじことですから、それなら、「生き甲斐がない、早く探さなければ」というプレッシャーがない分、人生が軽快な方がいいのではありませんか?
「それって、私にはちゃんとした生き甲斐が見つかるはずないってことですか」
いえいえそう言っているのではありません。生き甲斐があるかどうかしりません。有るかもしれませんし、無いかも知れません。でも、そのことを言っているのではないのです。
生き甲斐を探すというのを目標にする生きかたをやめてみませんかと言っているだけです。それで、損になることはありませんよと言っているわけです。
「でもそれじゃ、生き甲斐はいつまでたっても見つからないじゃないですか」
そうですね。どうしても生き甲斐を探したいのですね。
「そうです」
「では、こうしましょう。ここまでいっても生き甲斐探しを放棄しないのならしかたありません。
たった三週間でいいですから、生き甲斐探しを中止してみてください。人生のうち3週間くらい無駄があってもいいでしょう。三週間、自分はもう生き甲斐は探さない。というのをやってみてください。そして、生き甲斐がなくても普通に生活できる。というのを確認してみてください。それが分かったら、もう一度生き甲斐を探すというのを生きる目的に掲げてもいいです」
三週間しっかり生き甲斐無しの生活をしてみると、生き甲斐を探すことがいかに無駄なことか分かると思います。
人生は、生き甲斐を探すより、生きることです。
泣いたり笑ったり苦しんだりほっとしたりすることです。
生きることです。
哇~好長的文字。
真的可以這樣就貼下去嗎?!
關於[生き甲斐]的很兩面的自問和自答。
貼下去囉。
其實想收下的意念是。
原來不論是以怎樣的文字,在這地球的空間裡~多少的心靈都會像是這樣跟自己提問著。
[我思故我在]。
不是壞事。
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